経歴
MRC. 自己紹介をお願いします。ASCIIでの役割、特にMSXに関するプロジェクトへの関与について教えてください。
TM. 私は当時、株式会社アスキーでMSXのプログラマーをしていました。正確を期すため、時系列で当時のことを書きます。
1989年夏
株式会社アスキーの入社内定。当時は大学生。当時の日本では夏には就職先が決まるのが通例だった。
1990年4月
株式会社アスキー入社。3ヶ月ほどは新入社員だけで研修を行う。
7月ごろに新入社員は仮配属。MSXを扱う部署に仮配属される。
1990年10月
MSXのシステムを扱う部署に正式配属。
MSX turbo R「FS-A1ST」発売。つまり、私はMSX turbo R開発には何もかかわっていない。
次期MSX turbo RのためにMIDIインターフェイスの動作確認、MSX-BASICへのMIDIコードの追加を行う。
1991年11月発売の「FS-A1GT」が最後のMSXとなったため、私が「最後にMSXにコードを追加した人」となった。
1992年11月
出版部門に異動。
この後、仕事としてプログラミングはしていない。
1999年
株式会社アスキーを退社。
ASCIIの本部
MRC. ASCIIに入る前は、MSXユーザーでしたか? もしそうなら、あなたにとってどんな影響がありましたか?
TM. もちろん、ユーザーでした。
1983年に雑誌「月刊アスキー」でMSXの詳細が発表された時はとても驚き、これからは統一規格が普及するのだと思いました。ご存じのように当時のマイクロコンピューターは規格がばらばらでバイナリ(プログラム)に互換性はありませんでした。ですのでMSXは画期的でしたし、メーカー主導ではないということも公平に感じられました。
この頃にはBASICでプログラムを書いていました。自分ではマイクロコンピューターを持っていなかったので、学校の部活動のマイクロコンピューターを使っていました。でもそれもメンバーの誰かが持ち込んだ私物だったように記憶しています。Z80アセンブラを本で学んだのもこの頃です。
最初に買った(親に買ってもらった)MSXはヤマハの「YIS 503II」でした。
大学に入学した1986年4月のことです。
「SFG-05」や「YRM-52」「YRM-55」も買いました。コンピューター音楽をやりたかったからです。
といっても作曲ができるわけもなく、バッハなどを入力しては楽しんでいました。
翌1986年にはアルバイトで稼いだお金でやはりヤマハの「YIS 805/128」を買いました。「YIS805/256」を買いたかったのですが、もう在庫が無かったのです。
当時の日本の大学ではまだ大型コンピューターの時代でした。磁気テープがまだ存在していました!
授業ではFORTRAN、COBOL、Pascal、Lispを学びました。
「これからはCの時代だ!」なんて言われた時代です。
マンデルブロ集合やライフゲームのプログラムを書いたりしていました。MSXでは計算に時間がかなりかかっていました。8bitコンピューターの限界がよくわかりました。
と、このような具合だったので、就職先にアスキーを考えたのも当然でした。コンピューター・メーカーは組織が大きく、古い体質に思えました。アスキーはベンチャーで新しいことができそうな会社に見えたのです。
当時は日本のメーカーは世界的な大企業だったので、小さな会社に入ることを不思議に思った人は多かったでしょう。
MRC. 当時の ASCII MSX チームの雰囲気はどうでしたか?
TM. 皆、プログラミングをしていました。:-)
いや、プログラマーばかりではありませんから「みんな」ではありませんが。
まあ、現在でも見られる「プログラマーの部署」です。当時の日本企業としてはかなり自由な雰囲気だったのは間違いありません。
こういう思い出があります。
最初に私が上司に「鈴木部長…」と呼んだら、すぐに「ジェイ(Jay)さんと呼べ」と上司本人から言われました。:-)
日本では肩書きにこだわる人がほとんどだったので、これにはびっくりしました。が、もちろん従いました。なぜならまわりの人みんながそう呼んでいたからです。
(鈴木部長は当時まだ30歳ぐらいでした。開発メンバーもほとんどが20歳台でした。)
※「鈴木部長」=鈴木仁志(SUZUKI Hitoshi)。MSX-BASICの開発者。MSXのシステムソフトウェアを最もよく知る人物。
プログラマーとして超一流。
https://note.com/samf/n/nc0b40f054f06
「Jay」という名前はシアトルのマイクロソフトにいた時のニックネーム。日本人の名前は発音しにくいのでニックネームで呼ばれていた。当時、シアトルにいたメンバーにはニックネームがあった。
後に「株式会社ユビキタス」(現「株式会社ユビキタスAIコーポレーション」)を創業する(2001年)。
https://i.impressrd.jp/l288/e20071115182
https://www.akita-pu.ac.jp/up/files/www/oshirase/oshirase201...
MRC. 提案や意見などが通りやすい環境でしたか?それともトップダウン的な環境だったのでしょうか?
TM. 私は新人だったのであまり意見などはしませんでした。皆、MSXのベテランですから何も言うことはなかったのです。
それでも新人にBasicのコーディングを任せるわけですから、「トップダウン的」に見えましたが、それは私が新人だったからでしょう。細かいことはそれぞれに任されていました。もちろん全体での調整は行われていました。
MRC. 当時の ASCII の組織構造はどのようなものでしたか? 私達は、ハードウェア、ソフトウェア、書籍/雑誌部門は知っています。これら部門間でのMSXに関する協力はどうでしたか?
TM. だいたいその通りです。
パソコン通信にも力を入れていました。当時は一般にインターネットは知られていませんでした。
部門間の協力関係もよくわかりません。
出版部門の人はほとんど来なかったと思いますが、私が見ていないだけかもしれません。
ある時、「MSXマガジン」編集部に資料か何かを届けに行ったことがありました。
ところが、ほとんど人がいません。聞いてみると、「午前中はほぼ無人、午後から来はじめる」とのこと。それが編集部の常識だったのです。:-)
ということは、開発チームは真面目に朝から働いていたということになりますね。
MRC. A1STとA1GT が十分に成功していたら、それ以降のMSX turbo Rのロードマップはどうなっていたでしょうか? MSX turbo Rの次世代タイプを考えていましたか? またその仕様はどうなっていたでしょうか?MSX3の構想はASCIIにありましたか?
TM. わかりません。
時代は8bitから16bitへと移行しつつありました。MSXも16bit化は必要だったでしょう。しかし具体的な製品の計画はなかったようです。当時は日本では日本電気(NEC)のPC-9800シリーズが圧倒的に強く、その牙城をくずすのはかなり困難だと考えられていました。
※PC-9800シリーズはインテルのCPUを採用していたが、IBM PCとは異なる独自の仕様だった。
MRC. 新しい MSX やハードウェアを開発中に、ASCII と、ソニー、パナソニック、三洋電機などの主要な MSX メーカーとの間に相乗効果はありましたか?
TM. わかりません。
その時期は、私はまだ学生でしたので。
(以下の質問でも開発のことについてはほとんど回答できません。)
MRC. ASCIIと他のソフトウェアメーカーとの協力はどのようなものでしたか? 他のソフトウェアメーカーと共同で開発したASCIIタイトルはありましたか?
TM. 私が開発チームにいた時は「MSX-Viewを発売する頃でした。これは「HALNOTE」を改良したものです。ただし、私が知った時は開発は完了していました。私にはサンプルファイルを作るという仕事が与えられました。
※添付ファイル参照。画像は下記動画を使用。
https://www.youtube.com/watch?v=sb8n58LoUuA
「桂林」は私が描いた絵です。
なぜ桂林か?
白黒画像でピクセルも少ない。階調表現も制限がある。この不利な条件で描くとなると、水墨画がいいのでは…。と考えて描きました。
※「桂林」=Guilin, Karst Landscapes
日本語では「Keirin」と発音する。
MRC. ASCIIはMSX以外のプラットフォーム用のソフトウェアも開発しました。それらのチームとMSXチームとの協力などはありましたか?
TM. MSXの後、チームはオムロンのハンディ・コンピューター「Massif」のシステムソフトウェアの開発をしました。ベースはDR-DOSです。日本語ソフトウェアを載せて、日本語が使えるようにしました。
私はASCIIフォントのデザインをしました。著作権の問題があるためオリジナルのデザインが必要だったのでしょう。
MRC. すでに16bitや 32bit CPUが主流となりつつある中、MSX turbo Rの開発を進めた要因は何でしたか? また MSX
turbo Rのターゲット層はどのように考えていましたか?
TM. わかりません。
ホビーユーザー向けを想定していたはずですが、当時すでにスーパーファミコン、ゲームボーイもあり、苦戦するのは明らかでした。ほとんど人にとってはゲームさえできれば十分で、わざわざプログラミングまで勉強する人はほんのわずかでしたから。
技術的な質問
MRC. MSXの開発にはどのようなハードウェアやソフトウェアを使用しましたか? クロスプラットフォームツールなどありますか?
TM. 動作確認のためにMSX(テスト機、発売された製品)はありました。
メインで使っていたのはNECのPC-9800シリーズです。プログラミングやメールにも使っていました。
UNIX端末としても使っていました。アスキー社はJUNET(日本の研究用のコンピュータネットワーク)に接続できました。
MSX BIOS/Basicの動作確認ではEPROM(紫外線でデータを消去するプログラマブルROM)を使っていました。EPROMにバイナリデータを書き込んで、テスト機に差し込む、ということをしていました。
MRC. 当時、すべての開発をアセンブリ言語で行っていたのですか? 高級言語はすでに使用されていましたか?
TM. Z80アセンブリ言語です。
8bitコンピューターの限られたメモリ空間では高級言語は非効率です。
最も効率が良いマシン語を使うのは当然の選択です。
MRC. MSX3 の初期仕様では、CPU にザイログ Z280 を搭載すると言われていました。その後、ASCII は、R800
にすることを決めました。しかし、Z280 は、R800 の 3 年前、1987 年に生産されています。開発リソースを V9978
ではなく、R800 に使用したのはなぜでしょうか?
TM. わかりません。
が、日本でも独自にCPUを開発できることを示すことはとても重要だと考えられていました。
CPUがパーソナルコンピューターの動向に大きな影響を与えることは当時からわかっていました。当時、すでにインテルの影響力は大きなものでした。アスキーのような小さな企業がCPUを開発することには大きな意味があったのです。
MRC. R800 の他にZ80が搭載されています。なぜ、ASCIIは、モトローラの68000のような強力な CPUを使用せず、
互換性のために、コプロセッサのような振る舞いをする Z80 を選んだのでしょうか?
TM. わかりません。
ただ、互換チップはオリジナルを完全に再現できないことがよくあります。この時もそういう解決できない問題があったのだろうと私は推測します。完全な互換性を得るためにはZ80そのものを載せることが最良の方法です。
MRC. MSX turbo RのBIOSは、ほとんどパッチをあてたものに見えます。その時点では、それまでのソースコードがなかったのでしょうか?
TM. わかりません。
ソースコードはあったはずです。
この質問のBIOSというのがMSX-BasicのMIDI拡張のことならば、ソースコードはもちろんありました。
私はそれにコードを継ぎ足しただけですので、パッチのように見えても当然でしょう。
ゆるい質問
MRC. ASCIIにいた時、Aucnet NIA-2001というコンピュータをご存知でしたか? 一般市場には出なかったPCM非搭載のMSX turbo Rで、日本のオンライン車両オークションのために開発されたものです。
TM. 高岳製作所…。
これは高岳製作所が開発したマシンです。そして、私も何か小さな仕事をした記憶があるのですが、それがどういうものだったかは覚えていません。何だったかな??
現在の社名は「株式会社東光高岳」です。
MRC. 日本には、MSX の他にも、より強力なプラットフォームがありましたが、これらの競合するプラットフォームに対して、MSX の長所と短所はどのようのものでしたか?
TM. MSXの長所は、メーカーが違っても互換性があること、そして安いことです。
短所は、処理速度が遅いこと、ビジネス用ソフトウェアが少なかったことなどです。
テレビでの画像表示も精細とは言えませんでした。
MRC. 今、振り返ってみて、MSX システム全般についていかがですか?
TM. 「統一された規格」を提示した功績は大きいと思います。
ハードウェア、ソフトウェアどちらにとっても参入の負担軽減になりました。
すべてのパソコンメーカーがハッピーになれたわけではありませんが、ソフトウェア開発、周辺機器開発ではより低コストでできるようになり恩恵は大きかったです。
この頃、アメリカではIBM PCの互換機が普及し、同じようなことが起こっていたわけです。
MRC. 当時のコンピューター市場の売り上げにおいて、MSX は、他のプラットフォームと比較するとどのくらいの位置にいたと思いますか?
TM. わかりません。
そういうことにはあまり興味はありませんでしたので。
ただ、PC-9800の市場シェアはかなり高く、それを崩すのは難しいと誰もが考えていました。日本ではIBM PCはまだ普及していませんでした。
MSXを製造するメーカーも最後は松下電器だけになり、これでは市場の拡大も望めませんでした。
PC-9800の勢いが衰えるのはWindows95以降のことです。
MRC. なにか面白い裏話があったら教えてください。
TM.
MIDIカートリッジ:
Panasonic FS-A1GTの開発時のことです。
ある日、外付けMIDIインターフェイスの試作カートリッジが届きました。μ·PACKと同じものです。
ケースはなく、基板むき出しでした。
私がその動作テストをすることになりました。ところがなぜかまったく動作しません。
私が書いたテストプログラムが間違っているのではありません。
困って社内のハードウェア開発部門に相談に行きました(すぐ隣だったのです)。
回路図も見せたところ、すぐに「この線を切ればいい」と指摘されました。
その通りに基板上の線をカッターナイフで削ったところ、正常に動作するようになりました。
ハードウェア製作時のチェックのために別配線をしていたのでしょうが、その情報がこちらには伝わらなかったために私が苦労することになったのでした。
そういえば、この動作テストの時、MIDI
OUT端子から出力される信号の波形が正しいか、オシロスコープで検証したこともあります。もちろん、波形は正しかったのでオシロスコープを使った期間は短かったです。
動作テストで使ったのはローランドの音源モジュールCM-64だったと思います。ヤマハのDX7もありました。
MSX-DOSで動作する標準MIDIファイルプレーヤーも作った記憶があります。
Z80テスト:
ある時、ジェイさんからZ80マシン語の問題が3問与えられました。
指定されたバイト数である動作を実行するというものでした。内容は忘れましたがパズルのようなものだったのかもしれません。
私は1問しか解けませんでした。開発チームの他のプログラマーたちはすべて解けているようでした。
私は優秀なプログラマでしたが、開発チームのメンバーはもっと優秀だったのです。
優秀すぎる人たちと仕事をするのは必ずしもいいことではない、と何年もたってから思ったものでした。
play文のバグ:
気付いている人はほとんどいなかったようですが、MSX1〜2+のBASICのplay文にはバグがありました。
1つのplayコマンドが終了する時に1カウント分余計な空白が入っていたのです。つまり、あるplay文からその次play文に演奏が移る瞬間に、短い間が空いてしまうのです。一瞬テンポがずれるのですが、気付かなかった人は多かったかもしれません。私はかなり前から気付いていて、これが仕様なのかバグなのかわからずずっと不満でした。
(1カウントとはplay文の最小音符長のことで、96分音符のこと。)
BASICにMIDI機能を追加する時にBASICのソースの音楽演奏の部分を、ていねいに読んでいったところ、確かに上記のような現象が起こることが確認できました。やはりBASICのバグだったのです。このバグはこの時に修正しました。ですから、Panasonic
FS-A1GT(MSX-BASIC Ver4.1になるのかな?)ではplay文の挙動が以前の機種とは微妙に違っているのです。
この修正にあたってはバグのことも含めて上司(ジェイさんたち)にも伝えましたが、「へ〜、そうだったの?」という感じの反応でしたから、本当に気付かれていないバグだったのでしょう。
メールアドレス:
アスキー社では全社員にメールアドレスが与えられていました。当時の日本ではかなり珍しいことでした。
MRC. 最後に、世界中の MSX ユーザーに対してメッセージをお願いします。
TM. 記録を残すことは大事です。
誰かが意識的に記録しなければ歴史に残りません。
MSX Resource Centerの活動は歴史の記録にもなっており、すばらしいものです。
日本のMSX関係者にもぜひ記録を残してほしいです。
世界のMSXユーザーの皆さんもご自身のMSXの歴史をぜひ書き残してください。どこでMSXを知ったか、どこでMSXを買ったか、どんなソフトウェアを使っていたか、など私も興味があります。
さて、私は今はコンピューターそのものとは関係のない仕事をしています。
また、タヌキ(tanuki, racoon dog)、アブラコウモリ(Japanese house bat)のアマチュア研究者でもあります。
当時の開発チームの中では、私はMSXから最も遠くに行ってしまったと言えるでしょう。ただ、今ではコンピューターもインターネットも日常の中に普通に存在するものになりました。MSXの時代には夢のようなことが実現したのです。MSXは時代の先駆だったと私は考えています。
タヌキとアブラコウモリの研究については日本語のホームページしかありませんが、興味ある方はご覧ください。
東京タヌキ探検隊!:http://tokyotanuki.jp/
東京コウモリ探検隊!:http://tokyobat.jp/